第96回定時総会 記念講演『そろそろ出ていかないとな』

福澤 克雄 氏
TBSテレビ コンテンツ制作局ドラマ制作部 ディレクター

小学5年生から始めたラグビー

今日はお招きありがとうございます。これまでの人生で様々な方と出会って、だんだんとドラマについてもわかってきたことがあるような気がします。それらについてお話できればと思います。

私は福澤諭吉先生の玄孫として生まれまして、ありがたいことに慶應義塾幼稚舎に入ることが出来ました。そこでの6年間の経験が今振り返っても大きかったと思います。担任の先生の教えで、人間というのは非常に弱いものだ、だから働くことがとても大切だと。「一生続けられる、プライドを持ってやりたいと思える仕事を見つけなさい。そしてそのために勉強をしなさい」という教えを毎年、毎年聞いてきました。そして5年生の時、ラグビーをやるように勧められました。中学生になったら急に体つきも成長して、足も速くなって、ラグビーが楽しくなってきたのです。

もともと映画が好きだったんですが、中学2年生のときに『スターウォーズ』を見て衝撃を受けました。僕はたぶんこれだ、自分の仕事はこれなんだと。先生が言っていた、好きで好きでたまらない仕事は、たぶん映画監督かもしれないと思って、映画監督になろうと決意しました。とはいえそのままラグビーを続け、高校では勉強も大変で、でもひたすらラグビー漬けの毎日…大学に行ったらラグビーはやめて、アルバイトをしながら専門学校に行って映画の勉強しようと思っていました。

でも、なんとラグビーの高校日本代表に選ばれ、親もすごく喜んでくれました。映画監督になりたいなんてことは恥ずかしくて親にも友達にも言えない状況でした。そして大学でももちろんラグビーをやるんだろうと期待されて、慶應大学でもラグビーを続けることになりました。

今、もう一回人生をやり直せと言われても、あそこだけは勘弁してほしいと言いたいくらい練習は大変でした!あまりに練習がきついので、練習の恨みを全部試合で晴らす(笑)、みたいな気持ちでやっていました。でも、なんと優勝することができたのです。さあうまくいった、これでラグビーとの縁は終わりにして映画監督になるぞと。色々調べてみるとテレビ局に入ればいいのではないかと。しかしテレビ局の面接のタイミングで、23歳以下の代表選手に選ばれて。自分が映画監督になれるか自信がないものだから、ラグビー遠征の方に行ってしまったんです。そして入社試験は終わってしまい、その後、別の会社に新卒で入りました。でもこれが最後のチャンスだということで25歳までの新卒として、改めてTBSの入社試験を受けました。ドラマ志望と言っても入れてくれないだろうと思ったので、スポーツがやりたいと言って受かり、後からドラマ志望だと言って、怒られましたが異動させてもらいました。

周囲がバタバタと倒れていくAD時代

ADはすごくきつくて体力勝負でした。みんなバタバタと倒れていく中で、自分はラグビーのおかげで大丈夫で、練習に比べれば楽なものだと思っていました。とはいえ、ADとしてはうまくやれていましたが、この後ディレクターになったらどうしようかと。有名な監督の演出論みたいな分厚い本を買ってきて読んでもちんぷんかんぷんで何を言っているかも分からない。そこで、「ラグビー形式」しかないと思い至りました。大学の合宿所には世界レベルのラグビーの名試合のビデオが置いてあって、それを見ることで、こういう局面でこういうプレーがあるのかとわかり、何回か見て頭に入れておくと自分も自然とそういうプレーができたりするものなんです。ですから、イメージトレーニングだと。

オールブラックス級の映画を30本ぐらい選びました。自分が好きでつくりたいと思うような、そして世界的な評価もあるという作品を選んで、3年間くらいひたすらこの30本を毎日のように観て、疲れて寝たら次の日はまたそこからという感じで、その間は新しい映画とかドラマも一切観ない。30本をひたすら観ているうちに分かってくると、脚本に写したりして、勉強しました。

そしてディレクターとしてデビューしましたが、最初はめちゃくちゃでした。大先生が書いた脚本も手直しして怒られたりして、仕事もほとんどなくなったところに、『3年B組金八先生』のプロデューサーが声をかけてくれて。その作品を担当したら結構ヒットして、そこで生き延びたと思うことができました。

山崎豊子先生との出会い

視聴率を取れる作品を作りたいと思いながら、ある程度経験を積んでいったとき、『華麗なる一族』の作品で山崎豊子先生にお目にかかりました。そこで、「なぜ、だれのおかげで日本は一流国でいられると思うか?」と尋ねられたのです。先生の答えは「ものづくりの力」でした。原料を輸入して一流の品質のものをつくり、輸出する。そうすることで日本は裕福になれた。その、働くものづくりの人たちのためのドラマをつくることをあなたたちは考えないのか、と。視聴率が見込める、いわゆる刑事もの、弁護士もの、医療もの、恋愛もの、の4種類のドラマばかりつくっていないで、ものづくりの人たちが元気になるようなドラマをつくって、世の中のためになるようなことをやりなさい。そうズバッと言われたのです。

ものづくりがどんなものかよく分からなかったのでいろいろな本を読みました。そんな中で『下町ロケット』に出会いました。これは面白かった。池井戸潤先生の作品を片端から読んで、『オレたち花のバブル組』も圧倒的な面白さで。先生のところを尋ねて、『半沢直樹』シリーズと『下町ロケット』と、『ルーズヴェルト・ゲーム』の3つの原作権をいただいたのです。

正直なところ、先生には、視聴率は取れないかもしれませんと申し上げました。いわゆる業界の常識で、テレビドラマを見るのは80%ぐらいが女性で、マーケティングリサーチをすると、やっぱり分かりやすいものがいいというのがあって。業界物や銀行の話では大体視聴率は撃沈している。それでも日曜劇場は男性の視聴者もいますので、それなりの視聴率は取れるようにがんばります、やることに意味があります、そんな説得をしました。

大反対された『半沢直樹』

TBS社内では、大反対されました。それでも何とか説得して、うーん、話を聞くと面白そうだし、やってみるか、みたいなことでやらせてもらうことになりました。他局からの前評価は、番組編成が出てきたときにわかります。『華麗なる一族』のときには、他局もすごい番組をぶつけてきていたのです。しかし『半沢直樹』の時は、まったくの平場でした。全テレビ局の編成パーソンが、これは大したことはないと踏んだのだろうと思いました。現場では、女性はダメでも男性さえ見てくれればいい、とにかく最初は視聴率は取れないと思いますが一生懸命やりましょう、と話していました。

びびりながら放送を迎えましたが、すごい成績がでました。女性が見てくれたのです。これはいったいなぜなんだろうと考えたのですが、やはりマーケティングやリサーチでは、今まで見たことのある映画やドラマのジャンルの中からしか意見は出ません。自分だってそうで、新しいものはなかなか浮かばないし書けない。でも、私たちは言葉にならない新しいものを望んでいる。自分も、この"何だかわからない新しい空間"を目指さなくてはいけないということがよくわかりました。

そして次に『ルーズヴェルト・ゲーム』という野球の話をやりました。女性は見なくて結構、と言っていたら、本当に今度は見てくれなかった。数字は悪くなかったものの、半沢直樹ほどはいかなかった。その経験から、「どうだ、これは面白いでしょう」、そんな気持ちで作った作品は視聴者の心を打たない。そういうことがわかってきました。自分でもびびるくらい、こんな作品を作っていいんだろうかと思うくらいの新しいものを出していかないと、社会現象にはなれないということが理解できたのです。

『ノーサイド・ゲーム』でラグビーへの恩返し

自分も50代になり、日本で一番視聴率が取れるディレクターというように言ってもらうこともあって、どうしてこの立場に来られたかというと、それはラグビーのおかげだと思っています。芸能界なので、理不尽なことも嫌なこともたくさんあります。それでも、あの練習に比べたらまだいいんですよ、本当に。今でも社会人になった自分がなぜか合宿に参加している夢をみて、うなされながら起きる時だってあります(笑)。ラグビーの大変だった記憶に比べたら、ドラマ作りの大変なことも嫌のうちに入らない。それが自分の強さだと思うようになりました。

そして2015年、ラグビーワールドカップのイングランド大会で、日本代表がエディー・ジョーンズ監督のもとで南アフリカを破るという大事件が起こりました。その次は2019年日本大会です。有名なチームの試合以外は観客席が埋まらない…そうならないためにできることはないかと考え、ドラマでラグビーに恩返しをしようと、『ノーサイド・ゲーム』を作りました。開幕戦キックオフの直前に最終回がくるように調整して、盛り上がってきたという実感もあり、実際に全試合を満員で終えることができたと聞いてほっとしました。大嫌いだったラグビーに恩返しができたかなと思っています。

『VIVANT』にかける想い

2023年の『VIVANT』のお話をしたいと思いますが、その前に。 エンターテインメント業界の発展ということを考えるとき、一番大切なのはやはり人材です。この、人材の育成について長年貢献してきたのがTV局だと僕は思っています。大学を卒業して、才能があるかどうか全くわからないような若い子がいきなりフリーランスになるといってOKする親御さんがどれだけいるでしょうか。でも、TV局に就職するのであれば堂々と入ることができる。現在は配信やいろいろなエンタメがあって、TV局の力がだんだんと下がってきているのは感じます。でも、ドラマを作りたいという若い人たちのためにも何としてもこの部署を残していかないといけない。

さらに日本は1億2000万人の人口がいますから、国内向けだけに作品を作ってもそれなりの利益はでます。でも、もうそろそろ外に出ていかないといけない、と思いました。『VIVANT』が世界に出ていってすぐ大ヒットするとは思えません。何年もかかると思います。それでももうやるしかない。TBSの品質を世界標準にしなくてはいけない、というのも常々社長に言われていることです。

『VIVANT』も海外の優秀なドラマのように、1話見ただけではなんだかわからないが次への期待感を持たせる、という作りにしました。とにかく今までの成功例は全部無視して新しいものをつくろうと思って、挑戦してみたんです。配信することも元は嫌だったのですが、とにかくやってみようということでやってみました。蓋を開けてみたらなかなかの反響があって、良かったと思っています。そして、番組が一気に話題になる、地上波の力も改めて実感しました。

誰も見たことがないものをつくりたい

つくづく実感したのが、逃げたくなるくらいの新しいもの、今までの常識にないものをつくるんだということです。精神力が必要ですし、外れる場合も多くあります。でも、何かものをつくる、ドラマをつくる、新しいクリエーティブなものをつくるというのは、実際のところは誰も分からないし、正解がない。とにかくなんだか知らないけど、つくってみるしかない。そのことを本当に肌で感じて分かってきました。これからも新しいものを、頭の中に幾つか構想もありますが、つくっていきたいと思います。テレビ業界も配信業界も一緒に、とにかく一丸となって僕は日本のエンターテインメントを世界に出していくということに、死ぬまでまい進していきたいと思っています。本日はありがとうございました。

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